「安息を与える方」 03−01−19
ルカ6:1〜11
十戒を通して、「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」と神の民と
しての生き方を示してくださいました。私たちは毎週礼拝を守りながら、
神さまからの安息を与えられて過ごしています。これはとても幸いな
ことです。神の前に静まり、神と向き合うことが、人にはどうしても
必要です。人はそのようなものとして造られているからです。
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」申命記5章15節では、
「神が御手によって導き救い出してくださったことを思い起こすため
に」といわれます。安息日には、神の恵みを感謝し、喜ぶのです。
そのような神の御手に捕らえていただいていることを思い起こして、
安心して進みだすのです。
出エジプト記では、「神が休まれ、憩われたから」と言われます。
神が、お創りになった世界と人間に向き合ってくださるのです。
しかも、品質チェックをされるのではなく、極めてよいものとして、
憩いながら、いとおしむように向き合ってくださる。そんな恵み深い
出来事が安息日です。
主イエスは、ご自分の事を「安息日の主である」とおっしゃい
ました。この主がおられるからこそ、私たちは、安息日に憩うことが
できます。私たちにとって、神の導きによる最大の事柄は、罪と滅び
から導き出され救いに入れていただいたことです。このことの中心
には、主イエスの十字架と復活の出来事があります。
また、その主イエスがおられるから、自分の罪深さにもかかわらず、
神に向き合い、そこで安心して憩うことができます。
安息日に、主は右手の萎(な)えていた人を癒されました。
「手を伸ばしなさい」とのお言葉に従うと、こわばっていた手が自由に
なったのです。私たちにも呼びかけてくださっています。
「こわばっている手を、縮こまっている心を、わたしに伸ばしなさい。」
安息日に、救いの恵みを思い起こし、神の前で憩い、主に癒され
強められて、その週を踏み出していくのです。